維新派犬島公演「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき。」
12:11 // 0 コメント // soap // Category: 演劇 //岡山県の犬島で行われた維新派公演「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」観劇。
維新派の概要については公式サイトが充実している。
“その場所でしかできない、その場所を生かした表現を常に考えることで、背景は維新派にとって単なる<借景>ではなく、舞台の一部となる。”
公式サイトにこうあるように、維新派の公演は野外に大規模な特設の劇場を設営して行われることが特徴だ。今回も杉丸太三千本(四千本とも)で骨格を組み足場板を並べて舞台を作っている。劇団員たちは劇場の設営から公演終了後のバラシまで、五十日間も島で生活をすることになる。
一日一日変化する現場の様子が、今公演の特設サイトで写真つきで紹介されている。おもしろい。
今日の現場
犬島での公演は2002年の「カンカラ」に続いて二度目。維新派が継続して描き続ける「移民」や「漂流」を表すのにふさわしい場所ということだろう。
「台湾の灰色の牛が背のびをしたとき」
今公演につけられた「台湾の灰色の牛が背のびをしたとき」という不思議なタイトルは、フランスの詩人ジュール・シュペルヴィエルの「灰色の支那の牛が…」という詩からとられているそうだ。ジュール・シュペルヴィエルはシュルレアリスムの影響色濃い作風で知られる詩人だ。今回のタイトルの意味するところは俄には掴めないが、これも特設サイトにある一文を読めば、その詩から言葉をとった理由がいくらか感じ取れる。
推敲するつぶやき
“わたしは、これ(灰色の支那の牛…)を読んで世界が立体的になる気がしました。
「眼に見える立体感」ではなく、その背景にある眼に見えない圧倒的なものまで感じるというか。
それが、1つの眼差しではなく複数の眼差しでみるということなのかとか、まだちょっとどう言えばいいのかわからないけど、山を歩いていて、木のざわ めき・川のせせらぎ・鳥の声・遠くの自動車の音・空の飛行機の音を同時に意識したときに、すべてがそこにあるものとして、急にもくもくと立体感をもって 迫ってくるように体感した時に似てる感覚…。”
この感覚は分かる気がする。分かりきったものとして平板に捉えてしまっている現実が、何かのきっかけでその本来の質量や感触を持って迫ってくる感覚。感動的でもあり、すこし怖いようでもあるあの感覚。
シュルレアリスムは現実とかけ離れた表現という側面が強調されるが,意識のフタを外し無意識が捉えたもうひとつの現実、より本当の現実に触れる技法でもあったわけだから、この人が立体感と呼ぶ感覚を呼び覚ますこともシュルレアリスムの一側面と言っていいのかもしれない。
維新派の大阪弁ケチャとも呼ばれる独自の歌では、一旦言葉がバラバラに解体される。解体された言葉がリズムに合わせて再構成される。厳密にリズム合わせて発声された言葉はその音と意味とが分離する。そしていつもとは違うルートで入り込んでくる。聞き慣れたはずの言葉が奇妙な響きを帯び、思いもよらない気分が起こる。突然笑いそうになったりする。
このことは偶然を利用したシュルレアリスムの技法とちょっと似てはいないか。そう考えてみると今回の不思議で奇妙と思えたタイトルが俄然似つかわしいものに思えてきた。
ところで、こうしたインターネット上での情報発信に限らず、主宰の松本雄吉さんはインタビューや記者会見でも演出の意図や狙いを「ほいっ」と晒す。ジャンジャンオペラとは? なぜ7拍子なのか? 役者たちのあの不思議な身振りはどういう意図か? そうした維新派の核心に近い問いにもあっさりと答えていることをおもしろいと思った。
今回設営された舞台は、大きさの違う九つのステージが山の頂に向かって段々に設置されているのだが、それが瀬戸内の島々を模したものであり、アジアの島々でもあると言うことも、ぜーんぶ喋ってしまう。もっと隠しておいた方がありがたがられたりしないもんかとおせっかいなことを考える。秘すれば花と言うではないか。それを記した花伝書は明治になるまで一般の目に触れることさえなかったではないか。いいのか、謎がなくても。
そう言えば、公演の直前にちょっとした出来事があった。出演を間近に控えた劇団員の人たち数人が流し場で歯を磨いていた。そのうちの若い女性にいくつか質問し、写真を撮らせてもらった。「おおさかめっけ」に写真を掲載してもいいかを尋ね、一応の承諾をもらった。そこに主催の松本雄吉さんが通りかかった。リーダー格の女性が松本さんに写真掲載についてあらためて尋ねた。松本さんは我々が何者かを詳しく聞くこともなく「別にかまへんよ。」と一言。拍子抜けするほどあっさりと。
このあけっぴろげな感じはなんだろう。それは維新派の演劇がちょっとばかり情報過多になっても陳腐化しない自信があるということでもあるだろうが、それだけではないだろう。浅慮の誹りを恐れず言えば、維新派の演劇は作家・演出家の作品ではないということの表れかもしれない。いや、もちろん演劇は演出家一人の作品ではない。しかし、どう驚かすか、いかに感動させるかというような企ての成否の責は主に演出家に帰すると考えるのが一般的だろう。でも維新派の演劇はちょっと違うのかもしれない。 作家・演出家がいろいろ企んで、役者がそれを体現して、観客はそこにいることでその場の成立に一役買う。それが所謂演劇の枠組みだが、それに収まらないところにそもそも維新派の魅力があるということではなかろうか。
今回で言えば、犬島で二ヶ月近くも生活し、舞台と客席を作り、屋台村まで作り、公演をし、終えると全てを解体し、釘一本残さず更地にし、そして立ち去る。そこには元々となにも変わらない更地がある。その全てが維新派の演劇であって、舞台は維新派という演劇の一部にしかすぎないと捉えるなら、そのうちの舞台の趣向についていくらかあけっぴろげたところで、ぜんぜん耐えられるだけの強度を備えているというのも頷ける。
前置きが長くなった。
犬島へは船で行く。そりゃそうだ。
立派な船だなーと思ったら、手前の小さい方の船だった。
みしま3号は定員242名。小さく見えて意外に乗れる。
おおー、あれが犬島だ。別に犬の形はしてないし猫の方が多いらしい。
上陸。キレイに整備されてる。美術館脇の公園という雰囲気。
維新派の公演ではいつも屋台村が併設される。 どれもこれも旨そうなんだなー。
説得力あるなあ。いかにも旨いもの作ってくれそうだ。
なぜか散髪屋さんまであった。
維新派はほぼ全部ご覧になってるというご夫婦。犬島も2回目。「前はこんなに整備されてなくて、瓦礫がいっぱいでそれがおもしろかったですよ。」
ミニコンサートもあれば
大道芸もある。
開演直前に役者さんたちが歯を磨いていた。「白塗りするので、歯も白くないといけないんです。」
急な取材要請に対応してくださった清水さん。ありがとうございました。
楽屋兼住まいらしき小屋発見。
空中回廊を通って舞台へ。このアプローチが既に演劇的だ。 この島には階段よりもなだらかな坂が似合うという意味もある。
舞台では開演前の乾杯。
いよいよ開演。
まだ日のあるうちに始まり,日没を迎え,真っ暗になる。なんとも贅沢な舞台だ。
独特の身体表現はやはり抜群におもしろい。人間の自然な身振りには無い動きばかりだ。そのことが逆に人間の体を強く意識させる。振り付けは役者たち自身が考えている。
幾層にも連なる広い舞台全体でシンクロする動きは圧巻。
今回の「台湾の灰色の牛が背のびをしたとき。」は、「ノスタルジア」「呼吸機械」と続く「彼と旅する20世紀三部作」の最終章でもある。その三部作を貫く象徴がこの巨人。
奥行き二十数間という広大な舞台に幾層にも組まれた大小のステージは、アジアの島々を模しているのだが、このシーンで突然惑星の連なりのように見える。印象的で美しいシーンだ。
そして終演。
維新派の舞台は前衛的と言うべきなんだろう。しかし難しいという印象はなかった。
今回の演目では劇的な物語性は希薄だ。アジアの歴史を人の移動と象徴的出来事を順に並べて描いていく。凝った構成ではない。シンプルと言っていいだろう。なのに面白く,観客席との間の高いテンションがゆるむことが無い。それはやはり斬新で独創的な表現スタイルの魅力が大きい。変拍子の大阪弁ケチャ、時にユーモラスな独自の身体表現、そして大掛かりな野外ステージ。それらが合わさった維新派スタイルは文句なしに「おもしろい。」のだ。
ここからは本当に勝手な妄想だが,もしかするとこの独自のスタイルが生まれたことと,それが大阪で生まれたことにいくらか関係していないだろうか。独創性、高い芸術性だけでは満足しないで、もっとおもしろがってもらいたい、みんなに楽しんで帰ってほしいという大阪流のサービス精神みたいなものがどこかにあるように思えるのだ。それはせっかく記者会見に大勢きてくれはったんやからと事細かに話して聴かせる松本さんの姿とどこか重なるような気もした。
いずれにしろ、観客は誰もがこの前衛的な演劇を十分に楽しんでいた。最後に全員が深々とお辞儀をすると、惜しみない拍手が沸き上がった。
文/撮影 斉藤五十八
撮影 今西一寿
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